何でもかんでもやり過ぎるっていうのはよくないですよね。
リハビリテーションをしているとクライアントから「先生」なんて呼ばれていたり、障害学とか医学的知識についてはクライアントよりも詳しいワケですから、つい色んな事を教えてあげたくなったり。
運動がより上手く出来るように効率よく出来る方法を教えてあげることもあると思います。相談されれば解決策を教えていることもあると思います。
また、セラピストの多くが勤勉家であり、インターネットと言う情報源もありますから、クライアントに質も量も担保した情報提供が可能ですよね。
そこで、起きている問題点の一つに『教えすぎ』と言うことがあるのではないのでしょうか?
【教えないことも重要】
世界三大心理学の一つアドラー心理学にはこんな言葉があります。
『叱るのではなく、褒めるのでもなく・教えるのでもない。勇気づけるのである。』
『叱られたり、ほめられたりして育った人は、叱られたり、ほめられたりしないと行動しなくなる。そして、評価してくれない相手を、敵だと思うようになるのだ。』
ほめたり、教えたりするというのは、勇気を挫く行いであり、実は自立心を阻害するのです。
例えば、いつも困ったときには優しくしてくれたり、教えてくれたり、誉めてくれる人がいたら、その人と一緒にいることって心地良いですよね。
ましてや、その人の話したことや言ったことで上手く人生の困難を乗り切ることが出来たら、次何かあっても相談したり、その人の意見を考慮して考えたりしますし、下手をすると鵜呑みにしてしまうこともありますよね。
気づいたら、その人に相談しないと不安になったり、その人の意見がないと物事を決められない。いわゆる『依存』関係になってしまうのです。
これは、自立支援をしたいリハビリテーションと矛盾を引き起こしてしまうこともあるのです。
【知りすぎることはつらい】
情報というのはあればあっただけよいと言うのは誤解です。
インターネットが発展してから、情報が容易に手に入り今まで気にしなかったことを気にすることが増えたと思います。
今までは周りの仕事の様子なんかわからなかったから、転職なんて考えなかった。
今まで子育てが大変なんてわからなかったから、子どもも多かった。
今まで老後にお金がかかるなんて知らなかったから、今の生活を名一杯楽しめた。
今まで、老人施設なんて知らなかったから家族で看取りまでしていた。
知ると言うことはとても便利ではあるのですが、知ることで頑張ったり、困難を乗り越える経験を積めなくなっている。
知らぬが仏ではありませんが、知らないことがモチベーションになりえたりする。
知るから絶望したり、変に他人と比較してしまうこともあります。
【情報をつかむのも、使うのも本人】
リハビリテーションとは当然ながら、当人が行うものであり、セラピストはその人のサポートまでしか行えない。
勝手に情報弱者と決めつけ、そして人生の価値を決めると言うことはとても不遜の行為である。
お節介で、情報提供したり教えたりするという行為も場合によっては不遜の行為である。
先ほどのアドラー心理学に置いても課題の分離と呼ばれるものがある。
その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?
リハビリテーションであれば、クライアント当人である。
あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと、あるいは自分の課題に土足で踏み込まれることによって引き起こされます。
尋ねられた案件については全力でお応えしても良いとは思うが、聴かれてもないことや勝手に知らないと思って教えまくることが、本来やりたいリハビリテーションを妨げてはいないのか?考えて関わる必要があるでしょう。
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